Djubee's Garden with Fountain of Wisdom

なんだろ?から始まる自問自答のblogです

内なる声は・・

閃きというより、自分自身へ問いかけたときに返ってきた答え。

それが内なる声。

今日、トラウマ治療を受けているクリニックで 自分の答えを一つ見つけた

「自分の価値」って?

「生きる活力になる」?

 

愛着障害の特徴で 「自己嫌悪」や「自己肯定感が低い」など究極、ないものねだりをする共通項がある。

そして「愛されたい」「選ばれたい」それが満たされないと

「不安感」「疎外感」さらに 自己肯定感が低くなる

「選ばれなかった」

「仲間外れにされた」

 

そこに囚われてしまう障害。

そこで、思いついた。

「全ての人には価値がある」という考え方は正論なのか?と

「価値は必要ですか?」と先生に聞いてみた。

先生からの返事はない。

「世の中は条件付きなのです」と 上座部仏教のアチャン・ニャーナラトー老師はおっしゃった。

「無償の愛」「無条件の愛」は社会の中では難しいと。。

私は純粋に人を好きになる

そこに「価値」はある。

私が、その人に価値を見出したのだから好きになったに違いない。
でも、その価値は その私が好きになった誰かさんが自己肯定感のエヴィデンスとして位置付ける「価値」とは異なる。

人間に生きる「価値」というものが必要なのだろうか?

動物に襲われて食べられていたころの人間には
その捕食者にとっては「価値のある生物」だったに違いない。

私たちが 自分自身の中に「価値」を設定しなければならない理由などない。

Valuable(価値のある)という形容詞だけれど
よくよくみれば(品定め、値踏みができる)というような意味に感じられな気もしないでもない。

Priceless (マスターカードで一躍有名になったこの単語は、「値段のつけようがない」)という意味にとらえられる。

ではValuelessというのは (無価値)と訳される。

誰が私の 価値の設定をするのか、それは自分以外の人だろう。


本来、失礼な話だ。

女郎屋じゃないのだから、勝手に人のこと あ~だ~こ~だ~ 評論することもおかしい。

ここに、宣言する

    「人間は Valueless でいいのだ」

ただ生きること 本人が満足いくように 。
他の誰かを満足させるように生きるのではなく
自分が満足にいきること
誰かへ手を差し伸べられるとか
最後に後悔のない生き方

満足すること

忘却の能力は神=宇宙からの送りもの

価値観の同調圧力
自分より小さく弱い生物にたいしての圧力

そんな人たちの 価値観を 押し付けられて 他者を判断したり
自分より力の強い人の理想通りの「Valueable」

人間に「Value」は必要ない・・「Priceless」でいい

価値のある人間など いない

ただ命の短かろうが長かろうが価値は 平等なのだ。。。

人間は「無価値」でよい 命が「満足」であればよいのだ